松本崇史(以下、松):自由もさ、表現と同じで他者とともにあるから自由なわけ。
藤田進(以下、進):対話の蓄積の経験とその質。
松:そう。そこにさらに蓄積された文化と歴史があるから、その人の中で厚みを増す。
進:そこが自由の土台になる。そして保育では、土台になっているものを意識的に活用する、ってことか。
松:そういうことよ。だから必然的にイタリアのレッジョ(※)とは違うことになる。むしろ土台があると自由感が高いってわかるかなー。キッチンとか、暮らしもそうなんだよなぁ。
進:土台を意識できないと不自由に感じるんだよ、たぶん。
松:その通りなのよ。安心感も違う。
進:今ある文化や歴史の土台に立ち続けるって必然だけど、覚悟も必要よ。受け取るっていう主体的な意志みたいなものね。
松:与えられた幸せもあるけどなー。
進:そうそう、それを幸せって思って楽しめることもね。
松:まー、そういうのがわかるようになるのも、部屋の移動を解放してやっとわかったことやけどね。それにしても、土台があることでなんか捕らわれてるように思うのはなぜなんだろうね。
進:流行りものに流されやすい。島国でかなり土着なんだけどね、精神性は。
松:あー、それはそうだね。地域性を語る時もさ、なんか外国人から見た日本みたいな語り方をすることあるでしょ。あれも不思議。自由かー。
進:自由はなかなか広いね。
松:保育で大切にしているものを、「遊び」「自由」「環境」としてるけど、自由を言い換えないとな……。
進:自由はさ、自由を経験しながら育まれるものだと思ってる。だけど自由っていうのは、意識せずそこにいると、だんだんそれ自体が薄れていく。そして抑圧された中にいると、自由を渇望するけど、いざ手に入れると何をしたらいいのかわからなくなるよね。
松:あー、管理に慣れちゃうやつだね。うちに転園した子もそうなる。
進:自由は、搾取されたり自ら手放したり、いつも目減りしていくものなのよ。僕の感覚では。
松:自由自体が薄れるっていうのはおもしろい言葉だな。
進:戦って勝ち取るもの、誰かに奪われないように意識して守り保持していくもの。その時の自由って、自分自身であることとか、考えていることを臆さずに言葉にできることとか、表現すること。相手を思いやるけど、お互いに本当のコミュニケーションを取れることだったりする。
松:おー。
進:そのための経験や訓練が必要。それはさ、やっぱり良質な自由の中で獲得されていくものよね。自由の中に生きていないと獲得できないもの。
松:その通りよ。自由の中にいないとわからない。おもしろいことに、対立や比較があると自由がある。だから競い合いも大事だと思うのさ。それも訓練とも言える。
進:競い合うっていうのはポジティブだと思うよ。他者の中で自分ってのを意識しないと自由は身につかない。
松:競争して、落ちこぼれをつくるようなやり方は間違ってるけどね。だからさ、身体の遊びひとつでも同じでさ、設定の中の自由は、まずは共通のゴールがあるとよくて、基準はその子によって設けたいわけ。そうすると、その子も自分がわかるんだよな。
進:うんうん。
松:それは、とても自由なんだよ。
進:ゴールをつくりたくなる人がいると、根拠もない基準を押しつけられるもんね。基準は自分で決めればいいってことよね。もっといけるんじゃない?みたいなコミュニケーションはあっていいけど、一方的に目標を決めて、そこを目指させちゃうとおかしい。
松:そう。大人って、勝手に基準を引き上げたがるから。ただ、保育者は「この子はここまでいけるのにな」っていう感覚を掴むことも大事。それはさ、その子との信頼関係の中で伝えるといいのよ。
進:双方の信頼に基づくコミュニケーション……。
松:それが弱いと逆に「無理しなくていいんだよ、弱くていいよ、自分なんてと思ってイインダヨ」(笑)の不自由が起こるのよ。で、こどもが逃げても自己決定したと言うのよね。いやー、自由とは、突き詰めて考えることだな。
進:難しい!
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