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よもやま保育談議10 こどもの決定権と選択の自由



松本崇史(以下、松):保育での「自由の保障」というのは、遊びにおいては、まず「選択の自由」だとは思う。そんで、その「選択の自由」を保障するためには綿密な計画が必要になるの。


藤田進(以下、進):それは、わかる。


:保育における自由って、自治と責任と自律なんだよな。自由がないと他者との協同もないし、自分自身もわからない。こどもの内側もさ、自由がないと見えないよ。


:自由そうにみえて不自由って時にはさ、何を見落としてるんだろう?


:うんとね、こどもの決定権。保育者の決定権もかな。選択の自由はさ、それが指の数程度や手の中の範囲内なら、それは不自由じゃないかな。

:ああ、なるほどね。環境を設定して、選択肢がある。だから「自由だよね」って思っちゃうけど、選択肢が少ないってことね。


:まー、そういうことだね。例えばさ、室内の行き来ができなくて、その年齢に合ったものって専門性高そうだけどさ、こどもからしたら創意工夫を削られるみたいなものだもの。だからうちの園ではさ、どこへでも自由に行き来できるようにした。


:部屋の環境設定が発達に寄りすぎてる?みたいなこと。それが専門性は高くても、こどもの捉え方の視野狭窄を生んでしまってる?


:それは大いにあるよ。「生活」ってそもそも自由なんだがなー。


:これ、だいぶ根本的な、肝の部分の話でとても大事な気がする。だけど、もっと言葉にしないといけないだろうなぁ……。


:そうだね。具体的な場面もいるかな。例えばさ、こういうのを画一的って言う人はそもそもわかってないと思うんだよ、おれは。

















:画一的って、どんな人がいうの?


:最近の保育研究者やそれに影響を受けた人、あの放任型のとこかな。表現ではないと言うのよ。