藤田進(以下、進):あのさ、保育者は目の前のこどもの月齢や個々の発達に応じて、その子がわかってること、わかっていないこと(模倣や共感、協同性などの発達段階を含め)を意識してこどもと関わるってできるの?息子と話しててもさ、何をわかっていて、何をわかっていないのかを忘れて話しちゃうのよね。身体的発達面ではそれをしないけど、見えない部分に関しては、なおざりになる。それって時に、すごく暴力的よね。
松本崇史(以下、松):意識してできるようになるにはかなり経験がいる。しかも、かなり保育としていい中での経験。おれ、意識し始めてるよ。見える部分と見えない部分の両輪が必要なんだよね。
進:視覚的に見える部分と内面的で視覚化されない部分の両方が必要ってことね。
松:そうそう。それはさ、シンプルだけどさ、名のない遊びとかにも通じる。
進:こどもの中にあるものは何かしらの形で表出されるじゃない。ただ、ないものは出てこないし表現もされない。「あるものを見つける、見分ける」。それよりもさ「そこにないものを見つける、見分ける」ってこと。
松:ないものがわかると、あるものもわかるしね。
進:それってとってもよい経験の積み重ねによって培われる技術?
松:そう。かなりの経験値。その感性や土台に恵まれている人もいるが、それを技術として積み重ねるには経験がいる。5年ぐらいから慣れだして、技術だけではどうにもならないことが出てきて、さらに磨きがかかって保育者の技術と感性がマッチするのに、10年くらい。
進:だよね。そう簡単に手に入るものじゃないよね。
松:寿司職人のようだよ。
進:一般に小学校は科目でその人をはかるけど、乳幼児教育はその子の中に「あるもの」と「ないもの」を「見て」、時期や環境に応じて育む、わけだよね。
松:「教科書を通して」と「環境を通して」。ずいぶん違うわな。
進:そう考えるとさ、こどもを「見る」ってことは基本的な保育士の力ってことになる。熟練の度合いはあるだろうけど。なかなか難しいことやってるよね。
松:むずすぎ……。今でもわからん。なんでだろうという子が山ほど。
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