藤田進(以下、進):『生活と遊びを通しての保育とは』(フレーベル館)、今読んでるけど、おもしろい。刺さるわ。
松本崇史(以下、松):やろ。あれ、むちゃくちゃいいよ。
進:あのさ、遊びって分解して、見えるようにできないものかね?
松:たぶん、分解の仕方だな。遊びの要素なのか。遊びの形なのか。
進:要素と方向性みたいなことな気がするんだよね。
松:だね。遊びの方向性っていいな。
進:自由とか解放とか、集中とか、発見、成長、努力、知識の獲得とか、遊びの中にはいろんな要素があって、方向性の舵はこどもに握ってもらわなきゃいけない。
松:それで?
進:その土台には、環境、文化、生活、こども観 / 人間観みたいなのがあって、日課とかと結びついてくる。たぶん、地域性や風土も土台に含まれるな。そこにいる人間もか……。遊びが沸き起こる土台、舞台みたいなものたち。そして要素と方向性……。
松:そうそう。日課は環境だからね。時間構成。遊びとは何かが、こう考えると見えてくるな。こどもはすごく「文化的なもの」を見てるよ。
進:何か、少し見えてくる気がしない?解き明かすっていうか、遊びを解題するときの、要素の理解の広さ。そして土台の捉え方みたいなものを、自分がもう少し捉えたいのよね。
松:それ、かなり難しい。
進:遊びは変幻自在だが、方向性ってのはある。質みたいなのは、遊んでいる本人じゃなく、外から見てる人の基準で決めてるもので、その遊びの現象をどう捉えているかってことが表現 / 表出される。ああ、自分で言っててもボヤッとしてるわ。
松:だから、人の発達の側面の分析のほうが先に立ってしまうんだと思うわ。
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