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教育の語源を巡るメモ①



「教育 / education」


語源を遡ると、その言葉がもつ意味を深く知ることができる場合がある。使っている言葉は同じでも、時代の中で意味が変わっていたり、自分が勝手に勘違いしていたりすることもあるわけで、たまに、ぼんやりと一つの言葉に思い巡らせるのは、僕の趣味みたいなものでもある。ロークの学院で、太古の言葉を探り当てようとするゲドのような気分といえば、いく人かは理解していただけるだろうか。


そんな言葉への憧れをもっていなければ、ひとつの言葉の意味を掘り下げて、「その本当の意味は何か?」なんて調べたりする人はほとんどいないようにも思う。


つい先日、ある本を読んでいたら、教育という言葉の意味はラテン語で「引き出す」という語源から来ていて、空っぽの容器になにかを入れ込んでいくようなイメージではなく、その人の持っているものを引き出していく、というのが、教育の原義にはある、というようなテキストに出会い、なるほどと何かが腑に落ちる部分があった。ある意味では、近代教育への一種の反省と抗議みたいなものでもあるなと思ったのだ。


気になって少し調べてみると、なんとまあ、同じ関心をもって緻密にまとめられているありがたい論文を発見。これは面白い。教育はラテン語で「educatio」。その用法を辿ると、人間だけではなく、動植物も含めた生きとし生けるものを養い育てる営み、というような使い方をするらしい。そして、「引き出す」というのは「educere」で、教育の語源となる「educare」とは、音は似ているが違うとのこと。あらら、でも、まあ、考えてみると「引き出す」よりも、人間だけではない生き物たちを含めた「養い育てる」という方がしっくりくる。さらに、その言葉の奥には「食」を核に据えた営みというニュアンスも含まれるとのこと。


ほほう。先ほど、感じた納得感はこれだったのか!と、教育という言葉が本来持っているルーツを巡るのなかに、ぼくは「庭」を見つけたのである。教育というものの舞台は、食を核とした動植物との暮らしが営まれる空間であるとしたら、そこは、つまり庭だといっていい。庭しんぶんに、庭プレスと、普段から「庭、にわ、ニワ」と言っているのだが、庭という時空間 / 営みが兼ね備えてる機能のひとつである、教育的な価値を「ピカンッ」と、証明してくれたようでうれしくなったのである。



庭仕事では、「養うこと」、そして、「育てること」が、その仕事の中心になる。そのために、そこに生きているひとつひとつの動植物たちの個性を観察して、関わりながら、心地よい居場所を作ろうと心を使い、手を動かす。そのようにして、畑や家畜も含めた「食べる」ための具体的な手立てや知恵を含めた営みが、毎年更新されながら、暮らしが営まれていく。ぼくは、その営みそのものが兼ね備えていた教育的な価値と、こども、特に乳幼児教育を重ね合わせているのだが、いずれにしても「養い育てる」という継続的な営みと、教育という言葉の深い結びつきの気づきは、シンプルに、うれしい発見であった。


さて、教える、育てる、という組み合わせの言葉から、実際にぼくたちが受けるイメージは、、、


つづく


参考文献


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