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息子に「父さん、なんで僕の頭をたたくんだ?」と言われて言葉を返せなかったことがあります。「言うことを聞かないからだ」と言っても、それが理由ではありません。「怒りを抑え切れなくて」というのが正直な答えですが、親の面子がそれを言わせないのです。自分の言いなりにさせようと、褒めたりすかしたりしてもダメな時は強い言葉で迫り、脅したこともありました。保育士時代を思い出しても、抵抗したこどもに対して同じようにしていました。未熟にも、こどもを自分の描いた姿にすることがよいこと、正しいこと、それが教育だと思い込んでいました。でも本当のところは、こどもを知らないという無知、思い込みによる傲慢、怒りを抑制しない身勝手です。
私は、自分より優れたものを羨む気持ち、劣ったものをさげすむ気持ちがあることを認めます。力づくで意のままにしようとする身勝手さがあることも認めます。それは自分の中にある差別性、暴力性です。このような人によって子どもの権利が侵されます。こどもの事情を推し量り、無理矢理させようとせず、こどもの事情を先に考えてそれを知ること、受け入れることが権利を守る第一歩です。子どもの権利を考える時に、自分の差別性、暴力性を抜きにして語り出したら、全くの他人事になってしまいます。私はもうじき69歳になろうとしています。この歳になって、自分の中にある差別性、暴力性をいよいよ強く意識するようになりました。
私は、次の聖書の言葉に助けられています。「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。(※)」という積極的な教えです。人と関わる時、この言葉を基準にするとわかりやすいです。また、これを否定的に表現して「人からされて嫌なことは人にもしない」と自分を戒めると行動が抑制されます。今回の質問で、子どもの権利の重さを実感しました。児童憲章は、「児童は人として尊ばれる。児童は社会の一員として重んぜられる。児童はよい環境の中で育てられる。」と定め、児童権利宣言の前文は、「人類は、児童に対し、最善のものを与える義務を負うものである(中略)この宣言に掲げる権利と自由を享受できるようにするため、この児童権利宣言を交付」と記しています。これは今なお掲げ続けられるべきです。
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