前回のあらすじ 読み聞かせという言葉への違和感の話から始まって、絵本は文化論から役割論へと転換しないとね、という話。そして「庭的」って関係性が表現されてるよね、という話。庭的読書の最終話です。
藤田進(以下、進):一般的な理解として、絵本ってどういう役割を担っていると思われているんでしょうね。
松本崇史(以下、松):「本好きになる」「国語力」「言葉が増える」とかじゃない?
進:「想像力」もそうかな。でもそれって、なんとなく就学や学習というのが延長線上に意識されていますよね。それが「教えなきゃいけない」意識か。
松:学習って何かを得るための手段やその過程の効果であって、目的ではないと思うんだよ。
進:わかります、それ。つまり絵本の役割は「言葉が増える」ためではない。そして絵本を読んでいる時にはもっと違うことが起こっている。
松:そう、言葉が増えるのは「効果」であって目的にはならない。むしろ手段だと思われている「コミュニケーション」が目的かもよ。
進:そうそう。自然、動植物も含めたコミュニケーションね。それが庭だもの。
松:そうすると庭的読書が目指すは「世界を味わう」……いや「世界を愛でる」だな。
進:絵本を通して世界や人にタッチする。それによって世界を知るし、そこから体験への扉が開いていく。それに、体験してからまた絵本に戻ってきたりもするしね。絵本があるだけで世界への入り口の扉は一気に広がる。
松:しかもループ(循環)してるのよね。絵本はメディアだから、コミュニケーションしながら世界を愛でるというのが循環する。それにさ、愛でる方法はいろいろあっていい。歌ってもいいし、踊ってもいいし、ふざけて読んだっていいと思うのよ。
進:愛でる方法は自由!! それ大事。庭的読書っていうのは本を読むメソッドじゃないですから。それに、絵本の役割を学習の延長に限定してしまうのはもったいない。学習の延長には「世界を愛でる」っていうのがあったらいいのになぁ。
松:「もう一回読んで」って、絵本持ってやってくるこどもってどんだけワクワクしてんだ!って思う。
進:まさに!(「庭的読書」おわり)
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