1本の芝から生まれた「化石」
対象児:4歳児 時間:5分 場所:保育室 2022年10月28日記録
記録
夕方の園庭で、Jが1本の芝を大事そうに握っている。「Jくん、その草どうするの?」と保育者が尋ねると、Jは「恐竜にする」と言う。「ああ、なるほど。明日絶対作ろう」と保育者は言った。翌朝、登園時の支度を終えたJに保育者が「昨日の草、準備しておいたよ」と声をかけると、Jは真っ先にそこへ向かった。恐竜図鑑を開き、Jは「アロサウルスつくる」と決める。画用紙の上の芝を指さし、Jは「これは顔」と保育者に知らせていく。「ほんまや、顔に見える」と、保育者がJの言葉に合わせて芝を固定し、Jはその上をテープで貼り付ける。「手は短くする」「足は曲がってる」「(しっぽは)こうやってする」と、Jは保育者と対話しながらイメージを話し、アロサウルスの化石が完成した。
考察
①基盤的環境:草(芝)
芝は本園の園庭のあちこちに生え、子どもたちがいつでも手に取ることができる。抜いたり、ハサミで切ったりと、その扱いやすさからご馳走づくりなどの素材に見立てられることもある。今回は、3歳児の頃から空き箱や段ボール、木の枝など様々なものを使って恐竜や化石を作ってきたJが手にしたことで、「芝で恐竜をつくる」という発想が生まれた。芝ならではの根の張り方や草の形が、Jにとっては恐竜を連想させ、1本の芝からできたことを忘れさせるほどの作品となった。
②遊びの種類:見立て遊び
Jは、3歳児で入園した頃から恐竜への関心が高く、お面を作って恐竜になったり、空き箱で作った恐竜を手に持ったりすることで安心して過ごす姿があった。4歳児に進級してからは、恐竜の乗り物や恐竜の家づくりを通して、「恐竜」が友達とふれあうきっかけにもなっていた。
この日の夕方、園庭から「恐竜Jくん、ここ持って」という声が聞こえてくる。同じクラスのHが片付けの手助けにJを呼んでいた。以前なら、他児が片付けをするなか恐竜になることは、「遊んでいる」とみなされ注意を受けていたが、Jにとって「恐竜」が大切な存在であることをクラスの友達も理解し始めていると思えた場面である。こうした関係性の中で、クラスが、園が、Jにとって安心して自己表現できる場となったことで、今回のような見立て遊びが生まれたと推測する。
③誰が遊びのイメージをリードしたのか:J
初めてJが、自分で遊びをリードして作った恐竜である。たった1本の芝から、恐竜の化石がつくれるなど考えもつかなかった。Jの心には常に「恐竜」が存在しており、たまたま手にした芝ですら恐竜に見立てることができたのだろう。手足に、爪に見立てた草を貼り付けるときの角度や足の曲げ方は見事だった。保育者は本児のイメージがより具現化できるよう、物の準備や作り方の提案、対話を通して遊びを支えていった。
④考察
Jは、3歳児の頃から特別支援加配を受けている。4歳児に進級してしばらくは、登園時に泣いたり、生活の節目ごとに気持ちが不安定になったりした。「もっと遊びたい」「びっくりした」などの言葉が分からず、ほとんどが「嫌」「怖い」という言葉で自分の気持ちを表し、語彙の少なさも見えた。そうした姿から保育者は、Jの生活面に対する不安を取り除き、Jとの信頼関係を築くことがまずは大切であると考えた。登降園時の身支度が楽しく行えるような支援カードの作成、片付けや降園時刻の事前通知、明日登園してきた時に安心できる言葉の準備、本児の興味に合った遊びの環境構成など日々砕身した。「恐竜」は、そうした生活の中で常に存在し、Jが園生活を楽しむためにも、保育者がJを知りつながるためにも欠かせないものだった。
1本の芝からできた恐竜の化石は、素朴であるが、周囲の人の目を惹く美しさがあった。これまで様々なものを恐竜に見立て、恐竜をとおして保育者や友達とつながり自信を育んできたJだからこそ、表現できたのだと感じている。「1本の芝から生まれた化石」は、Jにとって「恐竜」がどれほど大切な存在かを私に考える機会を与え、保育者として大切な視点を教えてくれた。
そこで、園長から一冊の絵本を紹介していただいた。『ALDO-アルド・わたしだけのひみつのともだち-/ジョン・バーニンガム作、谷川俊太郎訳』子どもにしか見えない(兎のアルド)を描いたお話である。「アルドは わたしをすきなところへつれていってくれる。アルドといっしょだと なんにもこわくない」と、ページをめくるごとに、恐竜と共に過ごすJの姿が頭に浮かんだ。さらに、「想像力が生み出す風情は、わたしたちが考えている以上に、人間にとって大切なもの」であり、「時にはアルドのような存在が子どもをとりまく世界からひととき子どもを守り、大人の社会への橋渡しの役割をはたすのではないでしょうか」と、谷川氏があとがきに寄せた言葉からは、そうした心の奥深くまで理解できていなかった自分を省みた。園庭でただ恐竜になって遊ぶJを見て、私は「他にも好きな遊びを見つけてほしい」等と表面上のことしか考えず、本当は、Jは恐竜になることで自分の存在を確かめ、まだ安心しきれていないことを私たちに知らせていたのかもしれない。
こうしてJとのあゆみを振り返る中で、1つの視点に気がついた。それは、子どもが手にしたものを保育者がどう見るか、という事である。津守眞氏、津守房江氏の著書『出会いの保育学』に以下の言葉がある。「手放せないでいつも手に持っているということは、そのものがその子の心の奥の方と結びついたものではないか―(中略)―手に持っているものが何であるか注意してみると、その子の心の中にあることがわかる」Jは、4月から公園や神社で枝や葉を拾っては恐竜の手や背中に見立てて持ち歩いていた。それだけで楽しんでいると見ていたが、何度も手にしていたのは、満足しきれていない、これをもっと面白い遊びに活かしたいと感じていたのかもしれない。そして、10月の初めに枝で巨大化石を完成させてからは、枝を拾うことをしなくなった。さらに、初めてJから「もうコレ片づけるわ」と手放すことを知らせてきた。たった一言であるが、“このクラスには自分の大切なものを大切に思ってくれる友達や保育者がいる”という安心感や、“自分はコレがなくともまた作ることができる”という自信がもてるようになったJの変化が感じられた。芝の化石は、その翌日に完成した。「とことんやると、そのことが変化していく―(中略)―変化するんだけれども忘れてしまうわけじゃなくてその延長線上でまた戻ってやっているような気がします」と、津守氏は話している。
先日、おやつを食べながらJは同じクラスのTに「ドングリとかでも(恐竜)作れるんじゃない?」と声をかけられていた。Jも芝の化石を一目見て、「変身させる」と返していた。本当に作るかどうかはJ次第であるが、今後も表現の形を変えながら「恐竜」はJの中に存在し続けるだろう。いつか恐竜をすっかり忘れ、興味が広がればそれに越したことはないが、Jの心に存在する限りは保育者も同じくらい大切な存在として共に暮らしたいと思う。Jに限らず、子どもの小さな動きも見逃さず、手が語る言葉やその心の奥底を読み取っていくことは、保育の出発点ともいえる重要な視点だと学ぶことができた。
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